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文花中学校夜間学級
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曳舟中学校 夜間学級 沿革史 (文花中学校 夜間学級の前身)

更新日:2020年8月12日

墨田区に 夜間中学校 開校

 太平洋戦争の敗戦による混乱のまっただ中の1947年(昭和22年)に、六・三制による新制中学校が第一歩を踏み出しました。特に大空襲で壊滅的な被害を受けた墨田区においても、平和と民主主義を掲げた新学制の出発は、焼け野原にともされた希望の灯でした。同年3月から4月に設立認可を受け、5月に開校したのは、墨田、本所、両国、堅川たてかわ吾嬬あずま第一、吾嬬第二、曳舟ひきふね、寺島第一、寺島第二、寺島第三、隅田第一、隅田第二の12校でした。
 1953年(昭和28年)ごろになると、敗戦の混乱からようやく脱し、生活も少しずつ落ち着きを取り戻してきたことから、教育も何とか形だけは整っていく方向に進んでいきました。
 しかしながら、まだまだ貧しい家庭が多く、子どもが働かなくては生活が立ちゆかない家庭があり、依然として貧困長欠児童生徒が目立っていました。
 墨田区は、いわゆる墨東地区で、都内で最も工場数の密集した典型的な小規模零細工業地帯です。足立区や葛飾区と異なる点は、農業が皆無といえることで、極度に土地が細分化され、1950年(昭和25年)ごろには工場数が5千を超えていました。
 1953年(昭和28年)の区内中学生の長欠率は、都内の平均長欠率3.2%を少し上回っていました。当時区内には約1500名の長欠生徒がいました。加えて、これは江東6区に共通する問題点でもありますが、区内には地方からの義務教育未修了者がかなり在住していました。
 1952年(昭和27年)10月の区教育委員会選挙に立候補した高石常三郎(病院長)、射越利喜雄(元教員)両氏は、長期欠席生徒救済対策の一環として「夜間学級設置」を公約として掲げました。そして、それぞれの候補が1、2位で当選したこともあって、「夜間学級設置」が教育委員会の重点施策の一つとして掲げられました。
 夜間学級の設置にあたり、区教育委員会は1953年(昭和28年)1月に、足立区立第四中学校二部を訪問し、実情をつぶさに参観しました。夜間学級が着実に教育の成果を上げていることに力を得て、区内に夜間学級を開設することが正式に決まりました。
 ところが、夜間学級がなぜ曳舟中学校に併設されることになったのかという経緯については、あまりはっきりしていません。他区の開設の理由を参考に推測してみると、まず交通の便がよかったこと、推進派の教育委員の二人が ここの地元であったこと、地域の理解が大きかったこと、町工場が密集し学校の周辺に通学希望者が多数居住していたこと、校長が誘致に積極的であったことなどが考えられます。
 曳舟中学校からは1953年(昭和28年)2月付けで「墨田区立曳舟中学校第二部設置概要」の書類が区教育委員会に提出されています。それを受けて区教委は、東京都教育委員会に対して「設置許可申請」を提出し、同年3月16日に東京都教育委員会は7点の留意点を示して設置を許可しました。


 1953年(昭和28年)5月1日、夕焼けの光もほとんど収まり、街灯が点々とつきはじめたころ、いろいろな服装の少年や少女たちが、三々五々、集まってきました。たった8個の60ワットの電球のともる2教室を打ち抜いた式場には、前方一面だけに紅白の幕が張られ、この日が開校の式日であることを示していました。生徒たちの身なりはほとんどが仕事場から直行のジャンパーや作業着、それに学生服やセーラー服が多少まじるものでした。何しろ平均年齢は17歳で、最年長は31歳。1学年2クラス、2・3学年の複式学級1クラスでの出発でした。

創設期・前期(1953〜1957) 手探りの学校運営

 こうして1953年(昭和28年)5月1日、本区最後の公選教育委員会の提唱により、曳舟中学校夜間部が歩み始めました。当初は区と都の予算面での食い違いもあったといいますが、やがて話し合いもつき、乏しい予算ながら、徐々に学校の形態を整えていきました。生徒を雇う中小企業の雇用関係が悪く、また、学校も労働青少年の実態に慣れないため、暗中模索の運営でした。学校としては、できる限り平常の中学校の内容に近づけるべく、努力を傾けました。この当時の問題点の主流は、生徒の健康問題と雇用問題でした。
 開設された5月1日の在籍生徒は88名(出席者78名)でしたが、6月20日には151名と約2倍近くに増えています。生徒の毎月の平均欠席日数は2日と少なく、また生徒の要望から、その年の夏休みはほとんど返上して毎晩授業が行われるなど、働きながら学ぶ生徒たちの学習意欲には目を見張るものがありました。
 こうした開設当時の様子を、初代 関根重四郎 校長は、次のように述懐しています。
 『開設当初は予算も正式に計上されておらず、教室に電灯の設備がされたに過ぎず、職員室も、旧用務員室を改造して、踏みつければすぐ穴の開くような床板の上に、辛うじて職員の机を並べるような粗末な場所であった。生徒を入れてみると、さまざまな障害に突き当たる。生徒の年齢はまちまちで、殊に学力の差は大きい。学習意欲の強い者、しかたなしに通学する怠け者、社会の荒波にもまれた不良じみた者、まことにさまざまである。これらの生徒の手をとり、足をとって育成された教師の苦心も並大抵ではなかった。私がその中で最も強く感じたことは、生徒の健康の問題であった。職場から夕食もとらず学校に飛んでくる。帰って食事をすれば10時11時となる。どうしても学校給食を実施せねばならない。こんな予算などは初めから計上されていない。当局に再度お願いしてもどうにもならぬ。しかし水沢委員のご厚意でコッペパン1個を与えられることができた時はほんとうに嬉しかった。』(「十年の歩み」より一部編集)
 開設当初は学校全体に一から創り出すという開拓精神のようなものがあふれ、生徒にも型にはまらない気風のようなものが見られました。授業の途中で風呂に行ってしまったり、お祭りのとき裸で鈴をつけてきたりして教師をあわてさせたりもしました。それでいて、どの生徒も学ぶことに飢えていました。教師は食事する暇もないほど質問責めにあう毎日でした。その後、生徒たちの積極性は他校との交流の面にも発展し、1955年(昭和30年)には足立四中、双葉中との3校球技大会も行われるようになりました。 
 授業面では、絶対授業時数の不足、雇用関係、労働問題からくる遅刻や欠席の多さから、生徒の学力は思うようには伸びませんでした。行事としては、1954年(昭和29年)からの夜間部だけの運動会・学芸会の実施、1955年(昭和30年)は日光への修学旅行、そして翌年からは関西への修学旅行など、一応の充実は見られたものの、授業の充実はまだ実現できませんでした。 
 1957年(昭和32年)には英・数2教科で実力別授業の試みが始められたり、「入浴日」を定めたりするなど、夜間部独自の工夫が出始めたのも このころでした。映画教室も時々実施されました。
 こんな発足当初の夜間中学校に対して、東京都としては都婦人少年室主催の「働く中学生慰安会」、1956年度(昭和31年度)より給食パンの無償給付等がなされたほかは、目立った改善や援助はありませんでした。
 学校内部では後援会が発足し、1954年度(昭和29年度)からは全国夜間中学校研究協議会の設立によって、学校間の横のつながりによる内部からの問題解決の努力が芽吹き始めました。

開設当時の 生徒たち

 開設当初の教室をのぞいて、当時の生徒たちをスケッチしてみましょう。描いたのは高山環子先生です。 
 『昭和28年6月のことである。蛍光灯の明りのもとに、教室いっぱいの生徒たちを見た時に、私はアッと驚いた。話には聞いていたが、これが夜間中学生かと思ったのである。男の生徒はもうひげが生えているような、もちろん髪の毛を長く伸ばして、分別臭い顔をしているのがたくさんいるし、女の生徒は、小柄な私が見上げて話をしなければならないような立派な身体をして、パーマをかけている人たちもいる。その中に、やっと今年小学校を卒業したと思われる幼い顔をした数人が、ところどころに席を占めている。ひと月、ふた月と たつうちに、大きい人も小さい子も、皆同じ生徒になってしまった。私は生徒たちの環境調査を繰ってみた。本籍不詳が3名いる。戦災孤児で、現住所は福祉施設になっている。女の子は3分の1しか在籍しないので、私のクラスは20名足らずであるが、そのうち3名は孤児なのである。書類の上ではそれとわかっても、暗い影も見せない生徒たちである。私は就任したばかりのこの中学校の生徒たちが、どんな困難にもうちかつことのできる精神を持つよう祈ってやまない』
 『学級費の、ひと月10円だけの集金でも、「先生、ミソカまで待ってください」と必ず私のところに申し出に来る小さな男の子がいる』
 『父親が、その子が家にいることを便利に思って出すまいとするのを、逃げるようにして毎日学校に出て来るという、かれんな女の子』
 『長期欠席の生徒に呼び出し状を出したその日である。あの子はお父さんが歩けないと言っていたが、その父親が杖にすがってやっと歩いて来たのである。「子供は自転車で工場の使いに行く途中で、ラビットにはねられて足をけがしたもんですから休んでいます。何しろ5年前に家内に死なれ、工場は閉鎖になり、私は足腰が立たなくなりまして……あの子の下に4年生になる女の子がいまして、炊事も、その子の世話も、何もかもあの子一人でやります。工場で働くあの子の日給100円で親子三人が暮らしていますので……学校は大好きなのです。どうぞ退学にしないでください」老人は古い名刺を大切そうに取り出した。それには「○○油脂会社取締役」と肩書きが印刷されていた』
 『このあいだのことである。顔も手もいつ洗ったのかわからないような、ズボンのおしりが破れているやせた男の子がひょっこり学校に出て来た。「先生、パンをください」遅刻してパンをもらいに来た。ほかの生徒はパン1個5円ずつ徴収しているが、全額補助でお金は受け取らないことにしている。コッペパンには何もつけてない。ただこのコッペパンをかじるだけで、生徒たちの夕飯が終わる。コッペパンを一つ渡すと、汚れた顔に白い歯を見せて、ニッコリした』
 『どの子も貧しい。貧しさから解放されれば、義務教育だけでも受けさせられる家庭がどれくらいあるかわからない。「先生に仕事をしているのを見られたら恥ずかしいですよ。油にまみれて見られたものではありません」と生徒は言う。「働くことは尊いことなのよ。どんなに油まみれになっても」と私はつぶやく。そして心の中で考える。8歳の時から大人用のケットバシを使って働かされている社会があるとは、いったいどうしたことだろう』(「十年の歩み」より一部編集)

創設期・後期(1958〜1962) 施設や内容の充実を目指して

 1957年度(昭和32年度)は、新制中学10周年にあたります。このころから学校施設充実期に入り、区内の鐘淵中と我が曳舟中で校舎が増築落成しました。
 1960年(昭和35年)には鉄筋4階建ての新校舎が落成。夜間部の職員室も1階の1教室分が確保されました。
 1961年(昭和36年)には、夜間部専用の畳敷きの給食室兼談話室がつくられました。この部屋は、当時夜間部の矢口主事によって「洗心室」と名付けられ、教室不足に悩む他校をうらやましがらせた夜間部の専用教室でした。
 創設期前期を経て、本校夜間学級はその形態を内部的には整えていきましたが、この時期には学級運営や授業面において、様々な工夫の必要に迫られるようになりました。学校の手の届かない雇用問題や生徒の健康面の問題は、はじめから大きな限界を抱えていましたが、学習指導や生活指導面ではまだまだ残された課題が山積していました。1955年(昭和30年)ごろに始まった夜間部独自の学年解体実力別方式の英・数授業が、この時期に至ってしっかりと定着しました。また、1958年(昭和33年)5月から水曜日に実施するようになった「入浴日」には、多いときは20名をこえる生徒を学校の近くの風呂屋へ連れていったことなども学校日誌に記録されています。
 この時期、1958年(昭和33年)には同窓会の準備会がもたれました。また夜間学級を支える後援会も歩み始め、規約に基づいて会長や役員も選出されました。
 全国夜間中学校研究協議会の動きも活発化し、諸方面に夜間学級充実のための陳情をおこないました。その結果、1959年(昭和34年)には夜間学級の専任の定員が6名になりました。 

生徒の実態の変化

 夜間部の第1期の卒業生1953年度(昭和28年度)は第3学年に入学したので、たった1か年の在学で卒業していったのです。この年度の卒業生と同時に入学し、夜間学級で初めて3か年全部を過ごしたのは1955年度(昭和30年度)の卒業生からでした。この年度の卒業生は73名という多人数でした。これは不就学でこの夜間部が創設されるのを待っていた人たちが、ようやく念願がかなって一度に入学してきた結果であるといっても過言ではないでしょう。
 ところで、卒業生数を見ると、1958年度(昭和33年度)と1959年度(昭和34年度)との間に数の上で大きな減少が見られます。在籍生徒数も1959年度(昭和34年度)には初めて100名を切り、夜間学級の生徒の減少傾向がはっきりと見られるようになりました。これはただ単に数の上での減少だけにとどまらず、生徒の実態や気風にも大きな変化が見られるようになりました。
 時代がいくらか落ち着いてきて、それまで夜間部に通って来ていたような生徒は昼間部に通うようになり、夜間部に来る生徒は、生活レベルが更に貧しい家庭出身の生徒が多くなりました。生徒の就労形態を見ても、住み込みの比率が年々大きくなっていったのもこのころでした。これは、家庭の苦しい経済状態から、「口べらし」としてやむなく住み込みとなったケースが多くなってきたことを示しています。
 またこの時期には、ただ単に経済的貧困から夜間部へ来ることを余儀なくされた生徒たちばかりではなく、非行などで学校生活になじめない生徒が、昼間の中学校から たらい回しのようにして追いやられてくるケースもわずかではありますが見られるようになりました。学校日誌にも、生徒間のトラブルや特定個人の問題行動で夜間部の教師たちが対応に追われたようなことが記録されています。
 生徒の学習に対する姿勢が、創立当初と比べて受け身になってきたという声が聞かれるようになったのもこのころでした。全国夜間中学校研究協議会でもこの問題が取り上げられるようになったので、これは曳舟中学校だけの傾向ではなく、社会的な風潮であったと言えるかもしれません。
 また生徒の服装なども、ひところに比べると派手になってきたのもこの時期の特色の一つです。これはテレビの影響で、男子などにも学校に来るのにふさわしい服装にするようになどという注意をしなければならない生徒が出てくるようになりました。

激動期 [ 1963〜1970 ]

 在籍生徒の減少傾向は年々顕著となり、1966年(昭和41年)には在籍が28名にまで落ち込んでしまい、翌年も全く同様でした。このままでは曳舟中夜間学級の存続そのものが危ぶまれるような状況が続きました。全国的にみても、ピーク時には87校・生徒数5200名を数えた夜間中学校が、1955年(昭和30年)を境に年々激減し、1966年(昭和41年)には、学校数27校・生徒数472名にまで後退していました。
 こうした夜間中学校の減少傾向に追い打ちをかけたのが、1966年(昭和41年)11月に行政管理庁から出された「夜間中学校早期廃止勧告」でした。これは、年少労働者に関する行政監察に基づいて、「トルコ風呂、バー、キャバレーなど18歳未満の年少者が働くことが禁止されている職場に対する労働省の監督、指導が十分行われていない」「義務教育に就学中の生徒を雇っている職場では労働法規に違反しているケースが多い」といった指摘の中で、「学校教育法で認められていない夜間中学校は早期に廃止すべきである」という勧告でした。昼に働き、夜に学ぶというのが年少労働者保護に逆行していて、学校法規にない夜間中学校はその温床になっているということで廃止勧告が出されたのでした。
 この勧告に、夜間学級の生徒や教師、卒業生たちは大変なショックを受けました。年少労働者は、誰も好んで年少労働者になったのではありません。年少者が法律に違反してまで働かなければ生きていけない現実こそが問題なのです。また、夜間中学校は「年少労働者」だけが通学している学校ではありません。年少者も含めて、夜間中学校でしか学べない多くの義務教育未修了者・不就学者の存在を不問にして、ただ単に夜間中学校は学校教育法規にない学校だから早期に廃止すべきであるという勧告は、夜間中学生たちに背負わされた現実の前には、何とも理不尽なものでした。
 皮肉なことに、この勧告が出されたころまで続いていた生徒の減少傾向に少しずつ変化が見られ、曳舟中の夜間学級でも在籍生徒が増加し始めたのです。その要因の第1に上げられるのは、1965年(昭和40年)に調印された日韓条約によって、韓国からの引揚者が夜間学級に入学してくるようになったことです。

日本語学級の開設と 引揚者の増加 [ 1971〜1978 ]

 増え続ける韓国からの引揚生徒たちに対し、日本語教室を特設して6名の専任が空き時間を使って対応しましたが、こうしたやり方では対応しきれないことは始めから明らかでした。都教育庁の調べでは、韓国からの引揚子弟のうち、公立学校に通っている者は53名、足立区元宿小へ6名、江戸川区葛西小へ9名、同小松川二中夜間部へ10名、足立四中夜間部へ11名、曳舟中夜間部へ15名ということでした。都でもこうした実状への対策として、1970年(昭和45年)5月から葛西小、足立四中、曳舟中の3校に日本語を教える非常勤講師を配置しました。しかし週6時間の講師配当の措置では何としても手ぬるいということで、夜間中学の卒業生 高野雅夫さんや夜間中学校の関係者が1971年(昭和46年)3月に都議会に陳情し、6月1日についに夜間中学校に日本語学級が開設されました。曳舟中の日本語学級の担当として初めて着任したのは滝沢良子教諭と井坪幸一教諭の2名でした。
 日本語学級が開設された当時は、ほとんどが韓国からの引揚者でした。しかし1972年(昭和47年)に中国との国交が正常化し、中国からの引揚者の入学が年々目立つようになっていきました。1975年(昭和50年)の卒業生20名のうち、引揚者は11名(中国9、韓国2)で、韓国からの引揚生徒は激減し、翌年になると卒業生16名中、中国からの引揚者が11名で、韓国の生徒は0となっています。

中国引揚生徒の急増で対応に追われる [ 1979〜1988 ]

 夜間中学へ入学してくる引揚生徒は年々増加していきました。1979年度(昭和54年度)には、4月に18名だった引揚生徒が6月には34名、10月末には47名になり、都教委の定めた1学級あたりの生徒定数(43名)を超えてしまいました。都夜中研を通して都教委人事計画課に講師増の要求を続け、ようやく18時間の講師時数を認めてもらうことができました。これで日本語学級を3クラスに分けて授業ができるようになりました。
 翌1980年度(昭和55年度)になると、4月当初の入学生徒は34名で、そのうち日本語学級の新入生は30名でした。このような状況で上級クラスは28名という異常な人数となり、指導は困難をきわめ、学級増の認可を求める声が高まっていきました。
 1981年度(昭和56年度)も同様の傾向が続き、初級クラスから学ぶ人のほとんどが不就学者で学習の経験もなく、日本語の習得にも時間がかかりました。そのため都教委・区教委に対して、再三再四、日本語学級の学級増を要請し続けましたがなかなか実現せず、日本語学級の専任が1名加配されたのは1991年(平成3年)4月。2学級が認可されて4人体制が認められたのは1992年(平成4年)4月になってからのことでした。

若年の不登校生徒の増加

 都内の夜間学級に、昼間の中学校を「登校拒否」した生徒の入学が激増したのは、1980年代になってからのことです。1983年(昭和58年)6月の時点で、都内8校に在籍する若年の不登校生は120名で、全体の25%にあたる人数となりました。曳舟中でも学齢や学齢に近い生徒が12名となり、在籍の18%を占めるまでになりました。
 曳舟中夜間学級の学齢不登校生たちは、入学した後も比較的に出席もよく、遠足や移動教室にも、行く前は冷めたようなポーズをとっていたのですが、けっこうよく参加していたことが記録されています。彼らは昼間の中学校への登校を拒否し、いろいろと手を尽くした末、ようやく夜間に登校してきた生徒たちなのですが、夜間では伸び伸びと学校生活にとけ込んでいました。
 しかし、それなりに問題もありました。掃除、あいさつなどの基本的生活習慣が身についていない、実技科目を軽視する、競い合いがないためにのんびりして積極性に欠ける、昼間の空き時間の使い方に問題がある。このような問題点を抱えながらも、何とか夜間学級に通っているうちに、それがきっかけとなって昼間の学校に復帰できるようになることを願い、彼らの指導にあたったのです。

曳舟中 夜間学級 30周年  手作りの 温かさを こめて

 双葉中に続いて曳舟中夜間学級が開設30周年を迎えました。1983年(昭和58年)12月の記念行事に向けて早くから活発な活動をしていたのは、記念誌の編集委員でした。各方面から原稿を集め、4度の校正をしました。日曜日も印刷屋に通い、校正のために徹夜した晩もあります。その甲斐あって、120ページの記念誌ができあがりました。
 式典・祝賀会の準備は昼間部のPTAの協力があり、とてもスムーズに運びました。また、昼間部の生徒会も花飾りを作って協力してくれました。会場は生徒たちの作品展として飾られました。美術科の水彩画、水墨画、陶芸作品、イラストシャツ、技術科のラジオ、電気スタンド、家庭科のパジャマなど多岐にわたり、生徒たちの自由な発想が伸び伸びと表現された見事な作品でした。
 準備のすべてにわたって「手作り感覚」を生かし、できるだけ夜間学級の温かさが伝わるものとなるように心がけました。また、記念品を入れる封筒にもその感覚は生かされ、手書きの文字とイラストで仕上げ、印刷機で印刷して作り上げられました。
 12月10日の式典当日には、来賓61名、旧職員7名、卒業生8名、生徒43名、教職員15名が参加。墨田区長がお祝いのことばを述べました。式典の中では、増山教諭によって「曳舟中30年の歩みと夜間中学の姿」が、その時々の学校生活がうかがえる写真を映し出して語られました。続く祝賀会では、生徒や教師に対する励ましの言葉が多くの方から寄せられ、寒い季節ではありましたが、心温まる一日となりました。

盛況だった初めての文化祭

 1985年(昭和60年)12月8日に第1回の文化祭が開催されました。 当日は、朝のうち小雨が残り、出足が鈍るのではないかと思われましたが、開場と同時にぽつぽつと来校者が見え始め、用意された模擬店の座席はあっというまに埋まってしまいました。最終的な来校者数は120名ほどでした。
 会場の体育館は、展示の部、模擬店の部、舞台と仕切られ、展示では写真、美術、書道、中国・韓国などの文化紹介があり、特に文化紹介に熱心に見入る人たちの姿が見られました。模擬店では、餃子、パオズ、キムチ、おでん、喫茶など、なかなかの売れ行きでした。
 午後からは舞台発表が始まりました。歌、劇、体験発表など、緊張して間違えたりしながらも、一生懸命な発表に客席からは盛んな拍手が送られました。
 校外へ広く呼びかけての文化祭はこの年が初めての試みで、すべてが手探りのため、生徒も教員も当日の幕が開くまでは練習や準備でバタバタとして、やっとこぎ着けたという状態でした。
 当日の劇で韓国のお嫁さんの役を演じた畠山クニさんは、「クラスメートの高鳳月さんの体験があの劇になったのです。私にとって演劇に出るなどという体験は、最初で最後の貴重な体験でした。忘れられない思い出です」と語っていました。

34年目に誕生した同窓会

 1986年(昭和61年)6月29日、夜間部の同窓会が体育館で開催されました。参加した卒業生74名のうち、10期までの人は15名、20期までが18名。33年間の空白など全く感じられない再会でした。曳舟中を愛し、育ててきた教員たちが次々に異動となる中で、16年間曳舟中に勤め、都夜中研の長老でもあった渡貫先生が育休補助として再び教壇に立っていたのを機に、12名の卒業生と、渡貫・石原・関本・大幡の4人の教員が発起人となって同窓会の設立にこぎつけたのでした。
 当日参加した村井稔先生が、1期から16期までの卒業生との連絡をつけてくれたので、戦後の混乱をくぐりぬけてきた古い卒業生たちが多く参加しました。旧職員の国谷先生や須藤さんの参加もみんなを喜ばせました。
 総会は、忍田 前校長のあいさつに始まって、経過報告、役員選出、規約承認等、手際よく進み、乾杯、懇談になりました。会長には内田博さんが選出され、毎年1回の開催を約束して、3時半に閉会となりました。その後、会長は鈴木助次郎さん、五月女すゑさんに引き継がれ、さらに畠山クニさんへと引き継がれました。

念願の 養護教諭の配属

 1987年(昭和62年)4月、長い間要望し続けてきた養護教諭が、嘱託というかたちではありますが、小松川二中と曳舟中に配属されました。(小松川二中へは都から、曳舟中へは区からの嘱託)
 夜間学級にはさまざまな生徒が通学しています。中国やベトナム難民、その他少数ではありますが、いろいろな国からの生徒が学んでおり、言葉もわからず、生活習慣の違いなどから心身の健康を害する生徒が多いのです。年配の生徒などは、昼に働いて夜に学ぶ大変さから、持病を悪化させる生徒もいました。また家庭に問題があって食事が不規則な生徒や、これまでがむしゃらに生きてきたためか、間違った健康の知識をもつ大人の生徒もいました。女子生徒の生理の悩みなども埋もれがちでした。
 浜田久子養護教諭が曳舟中へ来てからは、生徒自身が自分の健康状態について積極的に相談に来るようになりました。また浜田養護教諭もなるべくどの生徒に声をかけ、これまでの病歴を調べ、生徒の健康状態を的確に把握しようとしました。このように、校内に養護教諭がいつもいてくれるというだけで、生徒も教員も安心して日々の学校生活を過ごすことができ、夜間学級における養護教諭の存在意義は、実際に配置されてみて、極めて大きいということが分かります。専任養護教諭の正式な配置が切望されます。

生徒の多様化時代   新入生に見る 年度ごとの特色

1989年度(平成元年度)

 新入生は11名。そのうち普通学級に5名、日本語学級に6名で、年齢的には半数が若い生徒でした。特色は、日本語学級で学んでいた生徒を例年よりも思い切って普通学級へ編入したことです。また、英・数の進度別授業、書道、音楽、体育の選択授業などを実施したことです。

1990年度(平成2年度)

 普通学級に10名、日本語学級に14名で、オリエンテーション期間中も続々と面接に訪れました。前年度末のテレビや区の広報によるPRの効果か、日本国籍で中学校教育が未修了の中高年の入学が目立ちました。

1991年度(平成3年度)

 男子10名、女子8名。そのうち14名が日本語学級の対象者で、前年度に引き続き、中国からの引揚者の入学が目立ちました。タイからの若い男子生徒も1名だけいました。普通学級の入学者には、若年の女子の多いのが特色でした。

1992年度(平成4年度)

 普通学級に8名、日本語学級に6名の新入生を迎えました。また職員の体制は、日本語学級が2学級認可となり、専任教員が4名になりました。職員室も模様替えをして気分も一新。学校全体に活気が満ちていました。

1993年度(平成5年度)

 4月当初の在籍は56名。新入生が次々と入学してきて、1学期末には在籍が89名になりました。日本語学級は3学級認可となり、前年に引き続いて専任が2名増えて6名になりました。
 2学期の始めには14名が入学。このうち11名が日本語学級該当者であったため、新クラスを編制して対応しました。年度末には在籍が112名に達しました。

1994年度(平成6年度)

 普通学級に6名、日本語学級に15名の新入生を迎えました。日本語学級は新入生を二つの班に分け、「あいうえお」の指導から始めました。普通学級は新入生のほかに、前年度、日本語学級で学んでいた12名の若い生徒が編入して活気にあふれました。年度末には在籍が113名に達しました。
 なおこの年の4月から、それまでは1時間目のあとに位置づけていた給食を、2時間目のあとにずらしました。こうすることによって、遅れて来る生徒も給食に間に合うようになりました。

1995年度(平成7年度)

 30名の生徒が卒業し、新たに20名ほどの新入生を迎えました。意欲的に学習に取り組みました。この年から給食が民間に委託され、それに伴って臨時職員の栄養士が配置されました。戸惑いもありましたが、少しずつ軌道に乗っていきました。

1996年度(平成8年度)

 始業式の日に33名の新入生がやって来ました。普通学級に5名、日本語学級に28名です。前年度末の時点で在籍が飽和状態となり、入学制限をせざるを得なかったことも合わせて、初日の入学生の多さは近年まれに見ることでした。国籍も中国をはじめ、韓国、フィリピン、タイ、ベトナムと、これまで以上に多様化していました。

1997年度(平成9年度)

 普通学級に4名、日本語学級に20名以上が入学しました。夏休み明けの9月にも10名以上が入学して、在籍が90名を超えました。

1998年度(平成10年度) 曳舟中としての最終年度

 3月6日の送別会は、在日朝鮮人のオモニの音頭で乾杯。出し物では横笛の演奏つき中国映画の歌「らくだの鈴」にうっとり。ブラジルから来たOさんは友達を3人ほど連れてきて、ブラジルの格闘技「カポエイラ」を披露しました。最後の締めはやっぱり太鼓。こうして26名の卒業生を送り出しました。

教育効果絶大の 通訳介助員の配置

 1991年(平成3年)の2学期から、墨田区教委の配慮で通訳介助員が配置されるようになりました。それまでは生徒指導上必要がある場合、臨時に都の援護福祉課などを通して社会福祉協議会の斡旋を受ける措置などで切り抜けてきていましたが、非常勤とはいえ、週に2度、通訳介助員が配置されたことは、日本語学級の生徒にとっても教員にとっても非常に心強いことであり、大きな教育効果が得られるようになりました。
 1994年(平成6年)からは、通訳介助員として難波光紀さんに来ていただくようになりました。ご自身も中国残留日本人孤児として苦労され、59歳で日本に帰国してから懸命に日本語の習得に努力された方なので、引揚生徒たちの大きな励みともなり、生徒たちの絶大な信頼が寄せられました。その後は週に3度来ていただけるようになり、各行事はもちろんのこと、入学面接、生活相談、学校生活の折々の指導などにも立ち会っていただきました。そのお陰で言葉の壁による誤解やトラブルもなく、意志の疎通もしっかりと図られて、円滑で伸びやかな学校運営と学校生活が実現できるようになりました。

専任教頭の配置と 日本語学級が3学級へ認可

 これまで夜間学級は、その学校の昼間部に併設された学級ということで校長や教頭は兼任でした。ところが1993年(平成5年)4月から、日本語学級をもつ4校に夜間専任の教頭が配置されました。校長会の強い要望によって実現したのだといいます。それまで強く要望を続けてきた専任養護教諭の配置は棚上げにされたまま、管理職の教頭配置が優先された行政の姿勢に対して、学校現場としては複雑な思いの残る新学期の幕開けでした。
 本校には、中田和男教頭がこの年に新任教頭として赴任しました。着任時の「昼の中学校しか知らない私にとって戸惑いの連続です。一日も早く夜間学級の実情を理解し、教頭として貢献したいと思っております」という抱負のとおり、夜間学級の円滑な運営はもとより、全国夜間中学校研究会の大会事務局長などの激務を誠実に、かつ精力的に果たし、専任教頭配置のプラス面を大いに発揮して、曳舟中夜間学級の新たな歴史を切り拓く推進力となりました。
 またこの年は、前年に引き続いて日本語学級の学級増が認められ、日本語学級担当の専任教員も2名増の6名となりました。 

大事な夕食を管理する栄養士の配置

 1995年(平成7年)、夜間学級に栄養士が配置されました。これまでは、3名(病欠のため実質2名)の調理師が栄養士の役割も兼ね、献立の作成や発注、調理などのすべてを担っていたので、生徒の増加に伴って調理師への負担は大きくなる一方でした。この年に給食が民間委託となり、臨時の栄養士として永瀬洋子栄養士が着任しました。
 夜間学級に通う生徒たちは、昼間は大変な労働をして、疲れた体で学校へやってきます。また、栄養面やカロリーを十分考慮した食事の摂取が必要な高齢者や、日本の味になじめない日本語学級の生徒など、食事へのニーズが多様化しており、献立作りや味付けには十分な配慮が必要でした。永瀬栄養士は民間委託業者と連絡を密にとりながら、夜間学級の給食の改善に取り組みました。献立表には中国語の翻訳も入るようになり、給食だよりも発行され、生徒たちの給食への関心が促されるようになりました。
 これは、2代目、3代目となる榎本洋子栄養士、高橋さゆり栄養士にもしっかりと引き継がれ、夜間学級の給食指導は年ごとに改善・充実されていきました。また、文化祭の模擬店を開催する際にも、事前の細菌検査をはじめ、きめ細かい衛生指導がなされるようになりました。さらに、ランチルームでの交流給食などを通して、普通学級と日本語学級の生徒間の交流を図ったり、普段は授業などでも接することのないクラスの生徒と教員との交流を図ったりすることが日常的に行われるようになりました。
 栄養士の存在は、現在の夜間学級ではなくてはならないものになっています。臨時職員であるにも関わらず、夜間学級の特殊性からくる諸々の負担は大きいものです。一日も早い正規の栄養士採用が切望されます。

曳舟中パンフレット  『君も おいでよ! 夜間中学』

 日本語の習得を求めて入学する生徒は増加の一途をたどる一方、普通学級対象の不就学の若年生徒などは減少していました。文部省(当時)の学校基本調査でも、1997年度(平成9年度)中の1年間に小中学校を30日以上欠席した不登校の児童生徒は、10万5千人という驚くべき数にのぼっていることが判明しています。東京都内の中学校でも、毎年の調査の度ごとに不登校の急増傾向が続いていました。一度不登校になると、本人や関係者の努力にも関わらず、再び学校に復帰できる率は極めて低いのです。その結果、実質的な教育を受けないまま卒業証書だけを手にしているのが実態でした。卒業後、本人が夜間の中学校で学びたいと希望しても、夜間学級はあくまでも義務教育未修了者が対象なので入学を認められないという悲劇が毎年のように繰り返されていました。
 そこで曳舟中夜間学級では、卒業時に本人・保護者・担任が、夜間の中学校も選択肢の一つとして進路を考えてもらうために、1997年(平成9年)の2学期の始めにパンフレットを2千部作り、学校長を通じて墨田区内の全中学校教員へ配布しました。また区内の福祉会館、図書館、生涯学習センターなど、人の集まりそうな施設はもちろん、隣接の江東区や都内全市区の教育委員会などへも配布しました。
 パンフレットの作成段階では、文章や構成、表紙なども不登校生徒に訴えるものをと、教務部で検討を重ねました。キャッチコピーは『君もおいでよ! 夜間中学』に決まり、美しい虹とイルカの絵は、元不登校生で本校から定時制高校へ進学した卒業生が描いてくれました。このパンフレットの中には、本校の夜間学級に入学して、生まれて初めて鉛筆を持ったという在日韓国人生徒の作文なども紹介されました。

「文花中」としての 再スタートに向けて

 墨田区教育委員会は、進む少子化等に伴う学校教育上の諸問題に対処するため、1992年(平成4年)9月、墨田区立学校適正規模等審議会を設置し、区立学校の適正規模・適正配置の基本的な考え方や具体的方策について諮問しました。同審議会から、1995年(平成7年)8月末に次のような内容の最終答申が出されました。

   1 適正規模の確保と適正配置によって諸問題を解決し、学校教育の充実を図る。
   2 学校統廃合等に関連して、21世紀を見通した生涯学習のための施設・設備の充実を図る。
   3 適正配置を機に、地域施設としての学校開放のあり方などについて現状を見直し、地域の学校としての充実を図る。

 この答申を受けて、1997年(平成9年)11月に墨田区立学校適正配置実施計画がまとめられ、吾嬬第三中と曳舟中の統合計画が次のように示されました。

   1 統合の時期
      平成10年度末に吾嬬第三中、曳舟中を廃止し、平成11年度から統合新校を設置する。
   2 統合新校及び仮校舎の位置
   3 統合新校の改築時期
   4 統合新校の通学区域
   5 統合新校の夜間学級
      統合新校には夜間学級を設置する。

 以上のような計画を推進するために、対象校の地域・学校関係者を構成員とする設立準備会が設けられました。本校夜間学級からも小林教頭、加納教諭、石森教諭の3名が準備委員として検討会に常時参加し、夜間学級の要望や必要条件が新しい学校で実現するように努力を傾けました。


 こうして、激動の46年間にわたる「曳舟中学校 夜間学級」は、1999年度(平成11年度)からの 新生「文花中学校 夜間学級」へと、そのバトンを渡すことになったのです。

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文花中学校夜間学級

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電話:03-3617-1562
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